What’s MOGI

MOGIランドセルとは

MIND

ランドセルへのい。

お子様が誕生してから小学校ご入学を迎えるまでの、親御さま、ご家族のご苦労は筆舌しがたいことと拝察いたします。
まだ赤ちゃんだと思っていたら、気がつけばもう小学生に。泣きべそだった子も、やんちゃだった子も、みないつの間にか大きくなりました。わたしも、我が子のそんな姿に嬉しくもあり、少し寂しく感じた思い出がございます。

小学校入学は、親御さまにとっては育児の一区切りなのかもしれません。また、お子様にとっては、新しい環境へ新しい一歩を踏み出すときです。その大切なご家族の思い出の一コマに、彩(いろどり)を添えるのがランドセルではないでしょうか。

満開の桜の木の下で、ランドセルを背負った愛らしいお子様の姿は、わたしたちに、未来への希望、癒しと幸福を与えてくれます。
創業以来92年の長きにわたって、その姿を見続けてこられたことは、まさに鞄屋冥利に尽きると言っても過言ではございません。

代々ご愛顧を賜りましたお客様へは、感謝の気持ちで一杯です。これからもランドセルを通じて、ご恩返しをしていければ幸いです。零細企業ゆえ、決して多くは造れませんが、地道にひとつひとつ納得のいく、本当に良いものだけをお届けしてまいりたいと存じます。

株式会社モギカバン店 代表取締役 茂木 理亨

時代と共に。

1952(昭和27)年の様子

HISTORY

時代とに。

創業者・茂木忠治(ただはる/故人)は、1901(明治34)年、栃木県足利市に生まれます。
生家は、まだ和装の時代にもかかわらず、洋靴の製造業を営んでいました。(後の「モテギ靴店」、現在は廃業)その工場は、一般庶民の靴ではなくて軍靴を製造する、いわば軍需工場で、かなり大規模な工場だったと伝え聞いています。

家督は長男が継ぎ、男ばかり11人兄弟の4男だった忠治は、中学を卒業すると上京し、自ら食堂を営み成功を収めます。場所は高田馬場の早稲田大学にほど近いところで、連日学生が押し寄せ大盛況だったようです。その様子を、ちょうどそのころ早稲田大学に通っていた6男の誠陸氏(せいろく/故人)※は、「いつも大学の帰りに寄っては、兄貴にご馳走になっていた」と、生前懐かしそうに語っていました。

昭和初期のランドセル
昭和初期のランドセル

繁昌していた商いですが、あるとき忠治はネズミに噛まれて、ワイル病を患ってしまいます。一命は取り留めましたが、それを機に店を畳んで足利へ引き揚げ、養生しながら靴工場を手伝い、その間に靴職人としての腕を磨きました。そして1929(昭和4)年、となり町の桐生市で鞄職人として独立します。屋号は「茂木鞄専門店」でした。このとき靴職人ではなかった理由は、同じ業種だと生家と競合してしまうと慮ってのことだったと聞き及びます。

その後、次第に腕の良い鞄職人が桐生にいると話題になり、弟子も増え鞄製造工房としての地位を確立していきます。しばらくは順風満帆な時が過ぎますが、やがて時代は第二次世界大戦へと突入していきます。戦時中、忠治は被服廠(旧日本陸軍の、被服品の製造や貯蔵をした機関)で指導員として働き、出征することはなかったものの、店は休業を余儀なくされました。

1945(昭和20)年に終戦を迎えると、思いがけず好機が訪れます。噂を聞きつけた進駐軍が、次々と鞄の制作を依頼するため、モギカバン店を訪れるようになったのです。米兵は、牛革(なめし革)を一枚(一頭分)持ってきて、好きな鞄を注文して作らせ、残った革は無料で置いていったそうです。それを利用して、ランドセルやさまざまな鞄を作って店頭で販売したところ、飛ぶように売れ復興を遂げたのでした。

1959(昭和34)年、忠治は58歳という若さで急逝します。そのころ日本は、高度経済成長期に入っていて、さあこれからという矢先の死去でした。一人娘だった秀子はまだ高校生で、通学しながら母(きん/故人)とともに必死に忠治の残したモギカバン店を支えたと言います。高校を卒業し、しばらくして1965(昭和40)年、秀子は2代目社長となる巌と結婚し、巌は婿養子として跡を継ぐことになります。

巌は、赤堀村(現群馬県伊勢崎市)の、今でも健在な大農家の3男として生まれ育ちました。桐生高校を卒業して日本鋼管(現JFEエンジニアリング株式会社)へ就職します。がしかし、高卒では出世は見込めない、自分で何か商売を起こしたいと思案をしていた折に舞い込んだ縁談でした。

農業から工業、商業と畑違いでも、巌は元来の真面目で堅実な性格から、モギカバン店を着実に発展させていきます。資本金を増資して有限会社に改組し、その後、株式会社へ。モータリゼーションによって、商店街から郊外のショッピングセンターへ商業集積が移ったのを機に、1980(昭和55)年以降、近隣の足利市や太田市へ支店を開設していきました。

またこの頃、日本経済は好景気に沸き、1985(昭和60)年以降はバブル景気となります。そして、バブルが崩壊する前年の1990(平成2)年、3代目となる長男の理亨(よしゆき)がモギカバン店へ入社します。理亨は、青山学院大学を卒業後、「OSAM」ブランドで知られる先進気鋭のバッグデザイナー梶谷修氏(株式会社ジェノバジャパン代表取締役)に師事し、その後単身イタリアへ渡ります。わずか半年間でしたが、本場の革製品に触れ、そればかりではなく建築から美術工芸品まで多岐にわたって見聞を広めた後に入社したのでした。

イタリアのメーカーはみな小規模でありながらも、それぞれ個性的な鞄を作っている。しかも、自社ブランドを大切にし、プライドを持っている。モギカバン店もそうあるべきとの信念から、創業の原点に立ち返り、ランドセルを初めとする「モギオリジナル商品」の再構築に、自らデザイナーとして取り掛かかりました。

2008(平成20)年、理亨が3代目社長に就任したころ、時代は期せずして、就活ならぬ「ラン活」という言葉が生まれるなど、「工房系ランドセルブーム」によってモギカバン店も脚光を浴びることに…。また、理亨はこのころからEC(インターネット通販)に注力し、それも功を奏して全国のお客様からご用命を賜るようになります。

昨年は新型コロナウイルスにより、全世界が大変な年となってしまいました。そして、今年2021年(令和3年)もまだまだ収束の目途が立たない中、モギカバン店はおかげさまで92周年を迎えます。初代忠治が創業して以来、幾多の困難を乗り越え今日に至っています。今回のコロナ禍にも負けず、100周年に向って、社員一同力を合わせて一歩一歩進んでいきたいと存じます。

※茂木誠陸氏は早稲田大学を首席で卒業後、1927(昭和2)年、計理士(現在の公認会計士)になりました。同年、計理士法が制定されてすぐのことで、全国でも数人の登録者のうちの一人でした。
1940(昭和15)年、銀座並木通りに会計事務所を開設するも、戦災によって焼失し、戦後、杉並区に事務所を移転します。そして、1953(昭和27)年、計理士から公認会計士登録となり、「茂木公認会計士事務所」へ名称を変更します。以降、政府税務調査会の会員を長く務め、特に相続税について多くの具申をしました。
1999(平成11)年に逝去後、同事務所は同氏の長男、信氏が継承し、2011(平成23)年、「税理士法人 茂木会計事務所」(杉並区荻窪)となり現在に至っています。
誠陸氏は逝去するまで、長きにわたりモギカバン店の監査役として経営指導にあたりました。